鋸山美術館では7/3(土)〜11/27(土)まで「吉田堅治展」を開催しています。
この記事では展覧会の見どころや趣旨、吉田堅治の生涯などについて解説しています。
吉田堅治とその作品について少しでも多くの方に理解していただければ幸いです。
ここからは吉田堅治の画業を振り返っていこうと思います。
吉田堅治とは?
吉田堅治(1924-2009)は40 歳で単身パリに渡り、以来約40 年以上、欧州を中心に活躍し「マヤ・シリーズ」や晩年の「平和の祈り」など数々の重要な作品を発表しました。1993 年、現存の日本人作家としては初となる個展をイギリスの大英博物館にて開催するなど世界的に評価された画家です。
吉田の創作の原点は自身の戦争体験にあります。20歳で志願して特攻隊員となりますが、出撃することなく終戦を迎えます。多くの恩師や戦友を亡くした経験が「生命」について深く考えるきっかけとなります。「生命」とは何か、「平和」とは何かを問い続けた孤高の画家、吉田堅治の知られざる生涯をご紹介します。
生い立ち
吉田堅治は1924 年(大正13 年)5 月24 日、大阪府池田市の代々庄屋を務めた田家の九人兄弟の四男として生まれました。幼い頃から年上の兄に連れられ、美術館や神社仏閣古墳などに行き、また世界美術全集を観るなど外国への憧れを持って育ちます。池田師範学校( 現・大阪教育大学) で美術を学び絵を描くようになります。
戦争体験
1944 年卒業を目前に大阪第二師範学校を繰り上げ卒業。軍隊に入り土浦海軍航空隊で特攻隊員として訓練を受けます。訓練を受けつつ「戦争とは?生とは?死とは?」と自らに問う日々が続きます。いのちの尊さを強調する一方、戦争はこれを打ち砕く行為であると強い怒りも覚えたと言います。1945 年出撃することなく終戦を迎えます。
画家を志しパリへ
1964 年、40 歳になった吉田は教職を辞しパリへと向かいます。恩師の言葉「吉田、銃をとるな、絵を描け」という遺訓が吉田を奮い立たせました。そしてスタンレー・ウィリアム・ヘイターの版画工房「アトリエ17」に入ります。吉田はこの版画工房で凹版画の表現力豊かな新技法を貪欲に学んでいきます。
黒の表現
渡仏前の1950 年代から吉田は抽象画を描き始め、自己と絵画表現の確立を目指すようになります。そして深い内省の果てに「黒色はすべての色を吸収する。黒を知ることは自分を知ることになり、そこに無限の表現要素がある」と語るように、吉田の描く無機的で深い闇のような「黒」は重要な要素となっていきます。
「La Vie=生命」と日本
吉田は1980 年頃から全ての絵の題名を「La Vie(生命)」と名付けます。「いのちの根源を考えた時に、刻々と変化する表面的なものではなく、一つの動かぬいのちの中にあらゆる時の働きを表現すべきだ」と悟ったのです。1983 年日本再認識の必要性を感じ20 年ぶりに日本に一時帰国します。以後、日本の金銀箔で表現していきます。
妻・寛子の死
1986 年、妻・寛子を癌のため亡くします。妻の死を受け止めきれずにいた吉田でしたが「死も生も含めてこの世は自然の摂理によって動いている。死は死として受け止めるより他はないのだ」との境地に達し、「生と死」が対立するものではなく渾然一体となったものという考えを持つようになります。
マヤ・シリーズ
1990 年から翌年にかけて生涯の友でありエージェントでもあったホセ・フェレス・クーリと共に3 ヶ月間、メキシコに滞在します。マヤ遺跡の造形美と大自然の雄大さに感銘を受けた吉田は「マヤ・シリーズ」を制作します。これをきっかけに吉田の表現には青や赤、緑といった原色が増え、造形にも躍動感が溢れていきます。
大英博物館での個展
1993 年、ロンドンにある大英博物館で個展「La Vie」が開催され、存命中に同館で回顧展が開催された最初の日本人画家となります。担当した大英博物館の日本美術部長は「吉田の絵は金銀箔の使い方など、日本の屏風絵文化の精神性を有すと共に書道的な要素もある。そしてバランスとコンポジションが素晴らしい」と評価しています。
「平和」をテーマに活動
2000 年以降、吉田は「平和」をテーマに作品を制作していきます。イギリスとアイルランドの大聖堂で行ったインスタレーションでは12 枚の巨大なパネルを八角形に組み、平和の祈りを捧げる「祈りの場」を創出しました。最晩年は吉田の表現も純化し、円や丸などのより単純で普遍的な造形が増えていきます。
「平和」を願う祈りの形
吉田は「人間の祈りの姿が一番美しい」と言います。戦争で一度は死を覚悟した吉田にとって「生命」は「平和」があってこそ最高に輝くもの。だからこそ「平和」が最高の美であるとの思いに至ります。2009 年、病気のため日本に戻り、2週間後、癌のため亡くなります。享年84 歳。吉田の願う「祈りの形」は永遠に輝き続けます。
鋸山美術館「吉田堅治展」展覧会構成
ここからは鋸山美術館で開催されている「吉田堅治展」の展覧会内容をご紹介していきます。
第1章 −初期版画と「黒」に込めた想い−
1964年、日本が東京オリンピックの高揚感に沸き立つ中、吉田は教職を辞し単身パリへと向かいます。そこでスタンレー・ウィリアム・ヘイターの銅版画工房「アトリエ17」に通い、様々な版画制作に専念します。ヘイター式一版多色刷り版画、エッチング、シルクスクリーン、油彩技法など様々な表現を試みる中で独自のスタイルを模索していきます。
特に吉田がこだわったのが「黒」の表現です。1944年、吉田は軍隊に入りカミカゼ特攻隊士として訓練を受けます。多くの戦友の死を目の当たりにし、また自らも死を覚悟した経験から吉田は「生と死」、「生命」とは何かを考えるようになります。そして、深い内省の果てに「黒色はすべての色を吸収している。黒を知ることは自分を知ることになり、そこに無限の表現要素がある」と語るように、吉田の描く無機的で深い闇のような「黒」は重要な要素となっていきます。以後、生涯をかけて吉田はその表現を深化させていくのです。
第2章 −マヤ・シリーズと世界のYoshida−
吉田の表現の転機となったのは、1990年のメキシコ、キューバの旅にあります。友人でもあり、生涯のエージェントでもあったホセ・フェレス・クーリと共に約3ヶ月間メキシコ、キューバに滞在し、そこでマヤ遺跡の造形美と大自然の雄大さに感銘を受けます。神秘的な美しさに吉田は宇宙的な繋がりを感じたと言い、それを「マヤ・シリーズ」として発表します。
「マヤ・シリーズ」をきっかけに吉田の画面には色彩が溢れていきます。赤や青、緑など原色を用いた表現が増え、個々の造形にも古代人に触発された躍動感が広がっていきます。1993年、ロンドンにある大英博物館にて個展が開催され、存命中に回顧展が開催された初の日本人画家となります。展覧会を企画した日本美術部長のローレンス・スミス氏は「吉田はコスモス(宇宙)を描こうとしている」とその表現を高く評価しています。以後、ヨーロッパや中南米にて展覧会を開催するなど、吉田の表現する「生命」は世界的に認められていきます。
第3章 −「平和」を願う祈りの形−
2000年以降、吉田は「平和」をテーマに作品を制作していきます。イギリスとアイルランドの大聖堂で行われたインスタレーションでは、12枚の巨大なパネルを組み、平和の祈りを捧げる「祈りの場」を創出しました。アメリカ同時多発テロやそれに続く対テロ戦争など21世紀に入っても止まらぬ戦争の惨禍に吉田は平和への願いを強くしていきます。吉田の表現もより純化していき、最晩年は円や丸といった単純で普遍的な造形が増えていきます。
吉田は「人間の祈りの姿が一番美しい」と言います。戦争で一度は死を覚悟した吉田にとって「生命」は「平和」があってこそ最高に輝くもの。だからこそ「平和」が最高の美であるとの思いに至ります。戦争のない平和な世の中を願い、静かに鎮魂の祈りを捧げていく。吉田がテーマとしてきた「生命」は平和を願う「祈りの形」となってどこまでも多くの人の魂に語りかけていくのです。
「吉田堅治展」作品解説
鋸山美術館 特別展「吉田堅治展」では40 点余りの作品を展示しています。
その中から特に印象的な作品を解説付きでご紹介します。

1978 年、吉田は「Samurai」と題した作品を制作しています。本作はその構想段階の作品とされます。井戸は生活に欠かせない水源であり、そこに用いられる井桁(いげた)は武士の家紋として使用されてきました。この他、菱形の造形が増えるなど、明らかにこの頃から吉田が日本を意識していることが分かります。実際1983 年に日本に20 年ぶりに一時帰国することになります。

この年、吉田は日本に一時帰国します。日本に自身の精神的な拠り所どころを求めたのです。そして日本の伝統的な美、特に日本の金銀箔に魅了されていきます。吉田は金箔について「絵具にはない緊迫感がある」といい、内と外の両方に向かうベクトルを感じるようになります。以後、日本の伝統的な装飾美である金銀箔を使う吉田のスタイルが確立していきます。

この年、吉田は妻・寛子を癌で亡くします。絵が評価されず、生活が苦しい時に何よりも心の支えとなった最愛の妻の死に吉田は「生と死」について再度考えるようになります。ぎりぎりの精神状態で描いたと思われる黒の平塗りと、後光のごとく輝く金箔は「生と死」が渾然一体となった表現であり、吉田が全身全霊を込めて描いた妻への鎮魂と魂の浄化が感じられる作品です。

1980 年代後半から吉田はより大きな画面を必要としていきます。金銀箔の使用は日本の伝統美術である襖絵や屏風を意識したもので、黒色による書道的な要素も取り入れられています。「新しい世界、宇宙への扉を開かせる」と評価される吉田の絵は見る者の感性にダイレクトに訴えかけてきます。

1986 年に妻・寛子を亡くした吉田。妻の死により「生と死」が対立するものという概念を改め、渾然一体となったものという境地に達します。それにより自身の絵に無限の広がりを感じるようになったといいます。本作で吉田は青い空は自分、金箔は寛子を表すと述べています。

最晩年、吉田は金銀箔の世界にたどり着きます。ヨーロッパではその煌めく表現から「光の画家」と称される吉田。創作の前に般若心経を唱えていたとされる吉田にとって真円の造形には仏教的な要素が強く感じられるかもしれませんが、同時に吉田は全ての宗教は一つという考えも持っていました。対立のない平和な世の中を求めた吉田らしい表現です。
【展覧会情報】
展覧会名:鋸山美術館 特別展 吉田堅治展
会期:2021年7月3日(土)~11月27日(土)
主催:公益財団法人 鋸山美術館(吉田 堅治展実行委員会)
後援:富津市/富津市教育委員会
協力:ギャルリーヴィヴァン
開館時間:10時-17時 (最終入館は16時30分まで)
休館日:火曜日※ただし11月23日(火・祝)は開館、11月24日(水)は振替休館
入館料:一般800円 中高生500円 小学生以下無料 障害者手帳お持ちの方無料 団体20名以上1割引
交通手段 電車 内房線 浜金谷駅から徒歩5分/車 富津金谷ICから車で5分/東京湾フェリー 金谷港から徒歩1分